What Can You See Through the Historical Facts?
Naval Academy Etajima (Former The Imperial Japanese Naval Academy), Hiroshima, Japan.
May 2022
史実を通して、今何が見えるだろうか
海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校跡地)広島県江田島市
2022年5月
What Can You See Through the Historical Facts?
Naval Academy Etajima (Former The Imperial Japanese Naval Academy), Hiroshima, Japan.
May 2022
史実を通して、今何が見えるだろうか
海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校跡地)広島県江田島市
2022年5月
広島出身の母が2021年、コロナが世界中に蔓延する中、徐々に弱り、生きる気力も失い、亡くなりました。
母に子供の頃聞いたのは、「小さい頃原爆のキノコ雲を見たのを覚えている」という言葉だけ。もっと聞きたいと思ったけれど、子供ながらにこれ以上聞いてはいけない気がしてそのまま避けて生きてきました。学校では母が広島出身だと言うと、「原爆」と言っていじめられるので口にしませんでした。「はだしのゲン」すらいまだに観ていません。それくらい、子供には重い事だったのです。
ずっと病気がちで体重は35kgから37kgしかなく、常に幸せそうではなかった母。一番覚えているのは私が高校生位の時、文句ばかり言っているので「何故結婚したの?」と尋ねたら、「仕方なかったのよ。子供も欲しくなかった」と言われた事。私も反発心、独立心が強く、決して褒められた子供ではありませんでした。
昨年コロナの感染を防ぐため病院や介護施設での面会もほとんど許されないまま、母は亡くなりました。その後勝手ながら初めて避けてきた戦争や原爆の事をきちんと知ろうと思うようになりました。
1.幹部候補生学校庁舎(旧海軍兵学校生徒館)
通称「赤れんが」
日清戦争の前年、明治26年(1893)に海軍兵学校生徒館として生活、教育のため建築された。 屋根は当初は日本瓦葺だったが、明治38年の安芸灘地震後にスレート葺に変えられた。
2.大講堂車寄せ前
3.大講堂
大正6年(1917年)に兵学校生徒の入校式、卒業式また精神教育の場として建築された。外壁には瀬戸内海産の花崗岩を使った、鉄骨煉瓦石造。現在は幹部候補生、第1術科学校の学生等の入校式、卒業式等儀式に使用。収容人数約2,000名。
4.昔から起床等を告げるラッパ
5.大講堂 反対側
普通に撮ると他の見学者さんもいるため、こうなってしまう...
6. 大講堂
と言うわけで、他の方が次の箇所に移動してから撮影し、200m位走って追い付く、という事を繰り返した。
7.大講堂内部
8.壇上。
赤い絨毯は天皇(皇族だったかも?)しか踏んではいけないそう。
9..優雅なデザインの天井と照明器具。
10.照明器具のディテール
11.大講堂内から見える外の緑が美しい。
12.やや遠方、斜めより。
13.正面に寄ったもの
14.絵になる通路だったが、あまり近づけない上、数秒しか撮る時間が無かったため、光線の具合も含め非常に難しかった。
15.教育参考館 昭和11年(1936)築。
ギリシャ神殿風の鉄筋コンクリート造。内部は撮影禁止。主な展示資料として、勝海舟の書、広瀬武夫中佐の資料、佐久間勉大尉(第6潜水艇長)の遺書、海軍将校の書、特攻隊員の遺書等がある。また、山本五十六の遺髪も収められている。
16.入学した生徒は街中にある正門から入り、全員江田島湾に突き出ている表桟橋から船で卒業して行くそうだ。音楽隊の演奏の中を、練習艦隊へあるいは部隊へと旅立って行く。もう少し寄りたかったが、これ以上先には入れなかった。
17.右端に表桟橋が見える。その左隣にあるのは戦艦「陸奥」の主砲。
中央から左にかけての建物は旧砲術実習講堂。1階海側に据え付けられた大砲で砲術の実習が行われた。1階の壁は戦後取り付けられたものだそう。老朽化により解体予定との事。
「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」奥本剛 著/潮書房光人社より
18.日清戦争で活躍した三景艦(松島、橋立、厳島)の主砲砲弾
19.グレーの躯体は真珠湾攻撃をした5隻の特殊潜航艇の内の1隻。全長が23.9mあり、写真内に全部は収まっていない。手前ピンクの気蓄器は特殊潜航艇「甲標的」気蓄器(空気ボンベ)
20.戦艦大和主砲砲弾
21.特殊潜航艇の向こうに見える校舎
22.第一術科学校構内案内図
ここからは学校の外の江田島の街や海の様子を紹介。
23.泊まったホテルの最寄りバス停にあった美容院の看板。もう営業してないようだが、この褪せた感じが美しい。
24.今回滞在したホテルご安航の看板。新しく、とても気持ちの良いホテルだった。第一術科学校周辺はとても写真屋が多い。ホテルの隣にもフジカラーの看板が見える。生きて帰れる可能性が極めて低い時代から、写真はとても需要があったのだろう。
25. ホテルご安航2階の共用スペース。外の店はスナックばかりなのでここで買ってきたもので食事をしたが、誰も来ずとても静かに過ごせた。
26.カメラのダンケ
第一術科学校のすぐ側にある。この日は大雨だった。入ってみたかったが、なんとなく迫力に負けて入れなかった。ダンケの本店は第一術科学校の中にある。それだけ写真の需要があるのだ。
27.間違いなくダンケはドイツ語から来ているのであろう。
占領軍駐留時には駐留軍人を相手に仕事をする事もあったそうだが、海上自衛隊の学校が設置されてからは、学生や職員達の記念写真の撮影やアルバム制作に数多く携わってきた写真館。
28.すぐ横はスナック街
29.スナック街の特徴的な提灯
29.ベランダの美人猫さん
30.スナックナポリの子だった
31.絵になる廃屋。
32.西陽が良い感じ。
33.スナック街は奥へと続いていく
34.仕出し店の猫さん
35.海友舎(旧江田島海軍下士卒集会所)国登録有形文化財
明治21年(1888)に海軍兵学校の築地から江田島への移転に伴い、海軍兵学校に勤務する兵士や下士官の娯楽兼福利施設として建てられた木造洋館。通常は外観のみで中は非公開。稀に開館日がある。
36.坂を登っていると現れた親鸞聖人
37.教法寺
寛永12年(1635)に開基された浄土真宗本願寺派の寺院。海軍兵学校が築地から江田島へ移転するに伴い、兵学校敷地内にあったものを海軍の通知からなんと25日間で解体し、こちらへ移動させ2年半かけて組み上げたそう。この鐘楼は弘化2年(1845)に建立されたものが移築された。
38.教法寺
中も見事なようなので入ってみたかった。
39.久枝家の五輪の塔群(江田島市指定文化財・記念物)
久枝家は明治初年まで代々、庄屋・割庄屋として善政を行った。
五輪の塔は、仏舎利を納める塔の一種で、密教が盛んになった平安初期以降建設されるようになったもので、それらを構成する5層部分は下から地・水・火・風・空を著している。
40.上へ登ってみると面白そう...
41.きっととても親切なのだろうけど、少し座るのに勇気がいる。
42.こちらも座って良さそう
43.江田島銘醸
海軍兵学校が設立された後「海軍御用酒」として酒造会社を創業。江田島唯一の酒蔵。昔ながらの麹蓋製法で霊峰「古鷹山」から湧く軟水を使用して麹を作り、旨口の味が広がる酒を醸しているとの事。ここも夕方には閉まっていた。
44.江田島銘醸販売所。同期の桜というお酒をお土産に買うのはどうなのかと考えた末、やめた。
45.夕暮れ時のスナック、スパニー。
46.写真屋が多い。ここもなかなか渋い。
47.皆ここでお酒を仕入れるのだろうか
48.スナックメモリー
49.打ち捨てられた車。緑と一体化していた。
50.学びの館に向かう途中。あ、猫だ!と思ったら向こうからずいずい近づいてきて、かえって困るパターン。
51.そしてちょうど良い位置でポーズを決めてくれた。すかさず別の猫が僕も...と近づいてきた。
52.そしてモデルチェンジ
53.「学びの館」久枝家住宅の一部を活用した、郷土ふれあい体験学習や民俗資料の展示が行われている施設。この日は既に閉まっていた。
最終日、ここでお茶のたて方を地元のご婦人に教わった。とても美しい若いショートカットの女性と一緒になった。彼女は第一術科学校の生徒さんだった。二人で室内で向かい合って話せるなんて滅多に無いチャンスだと思い、「何故このような厳しい道を選ばれたのですか。もし差し支えなかったら教えて下さい。」と聞いてみた。彼女は「海やダイビングが好きなので...」とにこやかに答えてくれた。きっとそれが差し支えない範囲だったのだろう。
今はコロナ感染予防のため、呉に行く事も許されていないようだった。
54.サビ猫現る
55.学びの館の庭は猫の楽園のようだ。
56.軒下白黒猫
57.見返り美人
58.最後に再びサビ猫
57.帰りのフェリー甲板からの景色。行きに何か施設があるのに気づき、調べてみたら、昔から軍事上重要な島だった。
向かって左の大きな島が大麗女島(おおうるめじま)、右が小麗女島(こうるめじま)。
伝説がありそうな美しい名前だが、二つの島には大きな役割があった。
58.小麗女島(こうるめじま)
可愛らしい名前だが、戦前の呉軍港の入口に位置し、重要な役割を果たしてきた。海軍の見張り所があったそうだ。日没から日の出まで船の往来はできないよう、管理人が監視していたとの事。今も白い灯台と、上陸用の階段が見える。現在は海上保安庁が管理していて、もちろん一般人は上陸できない。
59.小麗女島
違う角度より。小さいだけに手が届きそうで、見ていて魅力のある島である。
60.大麗女島(おおうるめじま)
61.先ほどより右側に周った所。実はトンネルは3つある事が分かる。右側に2つ、左側に1つ。いずれも煉瓦造りと思われる。昔は特殊潜航艇蛟竜 (潜水艦)の地下工場があったそうだ。現在は海上自衛隊の弾薬庫に使われている。
左のトンネルのさらに左側には煉瓦造りのような建物、右側には船で入れそうな洞窟の入り口が二つある。もっと右に回ると、上陸できるよう石段になっているのが見える。
62.大麗女島
少し引いてみると、右側の陸の白い大きなビル、海上保安大学校と水上で繋がっている事が分かる。
63.フェリーに乗って15分程で呉港がもう近づいてくる。この日は半年に一度位の軍艦、潜水艦の多さだったそうだ。とりあえず見える位置のものを縦から。
64.横から
65.もうすぐ呉港。
呉の地形が良く分かる。山に囲まれて、軍港にぴったりだったのだ。山の中腹まで家がびっしり建っているが、昔はここから軍艦建造の様子が丸見えだったので、覆った状態で作業をしていたと資料で読んだ。また海側から山の方を写真撮影するのも禁止されていた。敵軍に場所や戦略が分かってしまうからだ。戦時の海からの絵や写真は皆修正されて山の部分が消されているのを他の資料館で見た。
66.最後は呉に戻ってから艦船めぐりをした時に撮った軍艦。
江田島は旧海軍兵学校の見学が目的だったので、ごく限られたエリアしか歩いていませんが、見所が沢山ありました。また、旧海軍兵学校を見学の際に案内の海軍OBの方から、第二次大戦終了時や現在他国で行われている戦争の我が国への今後の影響についても驚くお話がありましたが、ネットだとどのように広がるか分からないため、ここへ書く事は差し控えさせていただきます。
呉市も大変興味深い所だったので、近い内にギャラリーにまとめたいと思っています。
ご覧いただき、ありがとうございました。写真の無断ダウンロード、コピーは固くお断り致します。
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Aki